オーロラと空中窒素の研究者を称える

200ノルウェークローネ紙幣に肖像が採用されたほどの著名であったのに、60年近く忘れられていたこの教授は、今日、ノルウェーの名だたる科学者の一人と評価されています。

オーロラ: ビルケランド教授は、オーロラが太陽からの荷電粒子と関係あると結論付けた最初の研究者でした。そのため、オーロラの父と呼ばれています。説明:Hanne Utigardによるビルケランド教授の写真:Ludvig Forbech-MUV /UiO、オーロラの写真:Yngve Vogt

ノルウェー人のクリスチャン・ビルケランド教授(1867~1917)は、オーロラと太陽からの磁気嵐との関係に気づいた世界で最初の科学者でした。空中の窒素を固定して肥料を生産する画期的な発明にも関与していました。この発見は、ノルスク・ハイドロ社の土台を築くと共に、ノットデンとリューカンに産業ブームをもたらしました。何よりも、ビルケランド教授は、マーガリンやキャビアから電磁砲まで、さまざまな発明で60件もの新規特許を取得しました。ただ、今日私たちの視点から見て何より重要なのは、宇宙物理学と太陽物理学の分野で行われる近代的研究の大半の基礎を築いた点でしょう。

その先駆的発明にもかかわらず、ビルケランド教授の功績はほぼ忘れられていました。残念ながら教授は、オーロラにまつわる壮大な理論を証明することはできず、この理論は国際的に著名な科学者たちの激しい反論の的となりました。教授の死後40年たった頃には、オスロ大学(1UiO)の教科書に教授の名はほとんど触れられないまでになりました。教授のオーロラと地球の磁場の乱れに関する理論が実証されたのは、後日、宇宙衛星から測定できるようになった後のことです。

過去20年間、200ノルウェークローネ紙幣にはビルケランド教授の肖像が印刷されています。この紙幣はよく普及しているのに、肖像に注目する人はほとんどいません。

オスロ大学は、この発明家である教授の生誕150周年を祝し、ノルウェーと日本で数々の行事の開催を計画しています。

昨今、教授の功績は再評価され、多数の論文のテーマにもなっていますが、研究者としての教授の人生には、一般的に知られていない逸話がまだ多くあります。

科学的知識の宝庫

人工オーロラ:クリスチャン・ビルケランド教授は、有名なterrellaでの実験を行なった発明家でした。模型を使いながら、電磁気力でオーロラを再現できる仕組みを示しました。写真:MUV /UIO

ビルケランド教授を熟知する主な人物として、オスロ大学物理学部のAlv Egeland名誉教授(85)が挙げられます。同名誉教授は50年前の1967年に、ビルケランド教授の名誉を称え、100周年の企画に関与しました。ビルケランド教授に関する著作も何冊か執筆しています。

ビルケランド教授のひらめきの元になったのは、スコットランド人のジェームズ・マクスウェル氏(1831~1879年)とドイツ人のハインリヒ・ヘルツ氏(1857~1879年)という2人の物理学者でした。2人とも、電磁気学界を率いる権威者でした。マクスウェル氏は理論家であり、電磁波の動作と拡散方法を説明ました。ヘルツ氏は実験家であり、マクスウェル氏の理論を実際に試験することに成功しました。

幼いころのビルケランド教授は電磁気学という新たな学問に夢中になりました。生徒であった彼は、自腹で購入した磁石を使って授業時間に多くの興味深い実験やいたずらをしました(こうした実験に顔をしかめる教師も何名かいましたが)。後日、Alv Egeland名誉教授は、ビルケランド教授の電磁気学および地球の磁場の研究は、自分の研究にとって多大なる貢献をしたと語っています。

大学卒業後すぐに、ビルケランド教授は金属線の周囲の電気振動の実験を始めます。

1895年には、正負の帯電電極間に高電圧を流すと発生する陰極線(真空管内の電子の流れ)の研究に着手しました。

ビルケランド教授は、陰極線は荷電粒子で構成され、磁場によって制御可能であると結論付けました。

オーロラを人工的に再現

翌年、ビルケランド教授は太陽の黒点とオーロラとの関係に興味を持ち始めます。陰極線を使って、研究室で人工的にオーロラを再現することに成功した教授は、オーロラとは太陽からの荷電粒子によって引き起こされる現象であり、地上の地球磁場によって極域大気に導かれるとの結論を下しました。また、大気は膨大な数の荷電粒子で構成されるという見解も示しました。

ビルケランド教授のオーロラ理論は、太陽から空中に放出される電磁力を基盤としていました。教授がこの理論をどのように考えついたのかはいまだに謎であり、この仮定は60年ほど後の宇宙時代になるまで、実証されませんでした。宇宙時代黎明期から50年以上を経た今日でさえ、教授の先見の明に満ちた洞察力は感服に値すると、Egeland名誉教授は評価しています。

1970年代に入り、衛星から正確な測定が可能になって、ようやくビルケランド教授の理論が正しいことが証明されました。太陽嵐に含まれる粒子は、強大な力で地球にぶつかります。こうした粒子は、電離層で抵抗に遭い、スピードを落とすのですが、この抵抗によって大気中の粒子に巨大なエネルギーが転移し、光り輝くのです。

ビルケランド教授が台頭するまで、北のオーロラは特殊なオーロラガス、鉄分を含む粒子、大気中の局所的な電流、または流星塵によって引き起こされる現象であると考える研究者が多数いました。

ビルケランド教授の仮定は、オーロラに関する最初の現実的理論でしたが、オーロラの多様な形や色、動き、高度の説明は宇宙時代の研究家の課題として残されました。

生前、教授の見解は、イギリスのトップレベルの研究者を中心に、ほとんど支持されませんでした。太陽がオーロラの源であるということに納得しなかったのです。こうした激しい批判については後述するとして、教授の体験は、一般に認められた主流概念とは異なる画期的考えを、著名研究者がいかに激しく非難するものであるかを物語っています。まずは、教授の実験の興味深い点を詳しく紹介しましょう。

宇宙の再現

ビルケランド教授は太陽系と地球を真空室で再現しました。この実験は「地球の小模型」を意味するラテン語の単語から、「Terrella実験」と呼ばれました。

実験にはかなりの時間がかかりました。数日かけて作成した真空室「terrella」に電磁石を置くことで、教授は人口オーロラを作成することができました。ところが、ビルケランド教授のこの逸話には多少誤解があり、Alv Egeland名誉教授は、人工オーロラに関わる最初の実験が行われたのは放電管の中だと指摘します。

その後数年、ビルケランド教授はterellaの改良を重ねました。

その当時の科学では、電子は独立した粒子と定義されていなかったことを考えればなおさらそうですが、実験は見事なものであったと物理学部のJøran Moen教授は説明します。

最大のterella模型では、宇宙の量は約1,000リットルにも及びました。ビルケランド教授は発電機からの電流を使って「地球」に大量の電子を衝突させました。電圧は2万5,000ボルトと、家庭用コンセントの電圧の100倍を超えました。

太陽、彗星、土星の輪、宇宙空間、物質界の起源に対する教授の興味は徐々に高まっていきました。こうしたテーマの大半について書き記した主要な研究の寄稿論文は850ページに及ぶと言います(Alv Egeland名誉教授)。

ビルケランド教授の活動は、金のかからない趣味の範囲をはるかに超え、相当の資金を要しました。当時、ノルウェーはまだ貧しい国であり、オスロ大学は資金に困窮していました。

大学教授の俸給だけでは不十分です。費用の大半を自腹で賄い、ノルスク・ハイドロ社からの個人的収益を研究所の運営資金と雇用した6~8人の助手の給与に充てました。1928年~1936年にオスロ大学の学長を務めたSem Sæland氏は、自分の研究にこれほどの自己資金を投じた研究者はいなかったと述懐します。

苛酷な冬

ビルケランド教授は、オーロラの高度を何とか突き止めたいと考えていました。当時、オーロラは、ラップランドの木の上にまで降りてくると考えられていましたが、現在は、地上数百キロメートルで形成されることが知られています。

高度を突き止めるため、ビルケランド教授は、アルタ地方Kåfjord村を見下ろすサーミ人の「聖なる山」であるHalddeの頂上、海抜約1,000メートル地点に研究基地を建設しました。

登山は困難を極め、当時、徒歩では4時間近くかかりました。新しい観測所に最適な頂上を見つけようとしていた時に、猛吹雪であわや遭難の危機にさらされました。

教授は2人の助手と共にHaldde山の頂上で一冬を過ごしました。一日おきに嵐やハリケーンの暴風に見舞われ、破壊された計器の修理に追われました。石炭ストーブから逆流した煙で、居住空間がいぶされることもありました。移動はスキーやスノーブーツ、雪が氷に代わるとアイゼンも使用しました。3月には、助手の1人が雪崩に巻き込まれて死亡しました。

10年後、ビルケランド教授は、Haldde山の頂上に、より快適で大きな観測所を建てました。1912年~1919年の間に、17人が山頂で暮らし、内7人は子供で、3人は山頂で誕生しました。この期間、研究所は気象観測にも利用されました。オーロラは山頂を一度としてかすめることさえありませんでしたが、教授は精力的に、辛抱強く研究を続けました。

耳をつんざく騒音

カバー:クリスチャン・ビルケランド教授は、研究所で人工オーロラの再現に成功し、ノルウェーのアフテンポステン紙の一面を飾りました。ファクシミリ:アフテンポステン紙

ビルケランド教授の自慢のひとつが、自作の電磁砲です。発射には、火薬でなく電気が使われました。砲口からは1万個の鉄片がものすごい速度で発射され、弾丸のような力を伴っていました。

ヴィルヘルムドイツ皇帝は、この発明が戦争に革新をもたらすことを期待しました。フランスの軍事相は、ビルケランド教授の大砲に非常に興味を持ちました。

1903年、電磁砲の公開試験が実施されました。場所は、カール・ヨハン・ゲートに建てられたドムス・アカデミカ内のオールド・バンケット・ホールと現在呼ばれる立派な舞踏会場でした。テスト射撃は失敗に終わりましたが、ノルウェー史における最大の産業的冒険のきっかけとなりました。

人々の期待は大きく、舞踏会場は観客であふれました。閣僚2名と産業界の重鎮のほか、国際軍事産業の代理人も参列しました。ノルウェー人科学者フリチョフ・ナンセン氏も、最前列から成り行きを熱心に観察したひとりでした。

電磁砲から発射される試験用発射体の重量は10kg。ビルケランド教授は観衆を安心させる言葉をかけます。「皆様、静かに着席したままでいてください。スイッチを入れると、目にもとまらぬ速さで、音もなく、弾丸が的に衝突します。」そして教授はスイッチを入れた、とEgeland名誉教授は自著『Natural Scientist and Industrial Researcher Kristian Birkeland』に記しています。

耳をつんざく、弾けるような破裂音がしました。

電磁砲がショート(短絡)し、砲口から炎が噴き出ます。何人かの女性が悲鳴と«恐怖のあまり金切り声»をあげ、一瞬、会場はパニック寸前となりました。

「私の人生の中で最も劇的な出来事でした。あの一撃で、私の株は300からゼロに暴落しましたが、弾丸は的を射抜いていました」とビルケランド教授は後日語りました。

同日、事前に電磁砲を試験した時には、万事想定どおり運んでいたのです。

この出来事は予想どおり否定的な注目を浴びたものの、ビルケランド教授は騒動をかなり楽しんでいたと、Alv Egeland名誉教授は語ります。

電磁砲から放たれた電気の猛熱は1,000度を超え、後に、ビルケランドの「プラズマ電流」と呼ばれるようになりました。

この高熱の原因は、荷電粒子が高速で前後に移動することにありました。

電子が活動することで、磁場に囲まれた高電圧環境が作られました。この現象は、宇宙の太陽風プラズマに似ています。

ビルケランド教授はほどなく、予想外の現象を観測します。コイルの磁場に、ショートによる電気アークが扇状に広がったのです。教授はここで大発見をします。

試験の大失敗は忘れ去られ、この時からビルケランド教授の興味は電気アークへ移っていったとAlv Egeland名誉教授は解説します。

ノルスク・ハイドロ社創業者

電磁砲実験は思いもよらない結果につながりました。その数年前、英国研究者ウィリアム・クルックス卿は肥料の主原料である硝酸の世界的供給不足をを科学界に警告しました。卿は、大気中の窒素を直接取り込むことができれば、肥料生産の解決策になると考えました。これは将来、画期的発明の一つとなり、飢餓に陥るリスクから世界を救うことができると構想したのです。

オールド・バンケット・ホールでの電磁砲発射実験の失敗はまさに、近代肥料生産の基盤となりました。

電気アークの形から、ビルケランド教授が既に思い描いていたいくつかの理論が確認できました。

電気アークは窒素分子の三重結合を破壊することができます。トーチ型の炎からは、肥料の主成分であり硝酸の基礎成分でもある

酸化窒素が生じます。

世界中の科学者と事業家は、解決法を模索して争っていました。ビルケランド教授はその競争を土壇場で勝ち取ったのです。

この発見は、ノルスク・ハイドロ社創業において大きな節目となりました。硝酸の工業生産には、膨大なエネルギー量が必要とされました。ノルウェーには滝が豊富にあるため、電気は低コストで手に入れることができました。

これは見事な逆転ストーリーです。ノルスク・ハイドロ社は、オールド・バンケット・ホールでの爆発事故がなければ、日の目を見ることはなかったでしょう。科学界もしかりです。アイデアは突然思いつくものだ、と天体物理学者のPål Brekke博士(ノルウェー宇宙センター上級アドバイザー)は言います。

オールド・バンケット・ホールでの実験は失敗に終わりましたが、その日は歴史の本にビルケランド教授が発明を思いついた日として記録されます。ただ、Alv Egeland名誉教授は、ビルケランド教授は失敗の前にその構想を抱いていた可能性を指摘します。

ドムス・アカデミカでのショート事故の3週間前、ビルケランド教授は閣僚のグンナル・クヌードセン氏が主宰した夕食会の席で起業家サム・アイデ氏と面識を得ました。

サム・アイデ氏は実行力に長け、既に大気からの肥料製造事業について、ドイツ企業との交渉に入っていました。

サム・アイデ氏とビルケランド教授はすぐ意気投合し、教授は早速大学で実験に取り掛かりました。

当時、アイデ氏はノルウェー著名人の1人で、マスコミから注目を浴びていました。

アイデ氏はある出来事を金もうけの種にする方法をよく心得ていました。

マスコミはオールド・バンケット・ホールでの爆発の話題に飛びつきました。

嘲笑の的:英王立協会の主流派科学者は、ビルケランド教授のオーロラ理論を戯言とし、事実と誤謬の混同という立場を取っていました。宇宙時代に入り、ようやくビルケランド教授の主張が正しかったことを証明できるようになりました。写真:Carl Størmer、MUV /UiO

とにかく、発明は実を結び始めました。

ビルケランド教授の発明にアイデ氏が協力することで、ノットデンとリューカンの産業には隆盛期が到来します。アイデ氏はリューカンの«名士»となり、 ビルケランド教授の何倍も有名になったと、Aly Egeland名誉教授は主張します。

悲しき運命

ビルケランド教授は、晩年の5年間、黄道光に魅了されました。この光は、赤道で観測される独特な光で、満月のわずか百万分の1の光度しかありません。教授は、この光が太陽の陰極線によって引き起こされると証明することに成功しました。教授はこの光が太陽の活動に比例して、また地球の磁場の乱れよって変化すると考えました。

アフリカに長期滞在した後、教授はノルウェーに帰国することを望みましたが、第一次世界大戦が激化していたため、親しい科学者や友人のいる東京に立ち寄ることにしました。

ビルケランド教授は精神のバランスを崩し、わずか50歳でその生涯を異国の地、東京で閉じました。死後、教授の名はほぼ完全に忘れられていましたが、1960年代終盤の宇宙時代に教授のオーロラ理論が証明されて、再び脚光を浴びました。

ビルケランド教授は、ノルウェー科学界のトップクラスの象徴的存在でした。ただ、率直に構想を公言したことで、英国の主流科学者を中心とする反発に遭いました。教授の大半の科学論文が英語でなくフランス語で書かれていた点は、教授にとって不利に働きました。

英国式の皮肉

ビルケランド教授の死後、英国科学界である王立協会(ロイヤル・ソサイエティ)から辛辣な非難が浴びせられました。その先鋒に立ったのが、シドニー・チャップマン教授でした。同教授は聡明な数学家・物理学者であり、20世紀を代表する天文学者でもあります。

チャップマン教授は、ビルケランド教授のオーロラ理論に異論を唱え、オーロラは、大気上層にある局所的な電流によって引き起こされると主張しました。

王立協会の研究者が発言すると、自分の意見を唱えようとする者はほとんどいなかったと、自身も1950年代終わりに物理学を専攻したAlv Egeland名誉教授は語ります。

この時代、誰もがチャップマン教授と英国学会を参考にし、同教授の論文はオスロ大学でも講義されていました。ビルケランド教授のオーロラ理論とTerrellaに触れられることはほとんどなく、その理論は実質的に嘲笑の対象でした。

チャップマン教授は天才的科学者であり、尊敬を集めていましたが、証明できない理論を許容することを頑なに拒みました。しかし、衛星が出現するまで、宇宙空間での測定試験を実施することは不可能でした。ビルケランド教授はシミュレーションで天才的才能を発揮していたのに対し、チャップマン教授らの理論は、観察と統計モデルをそれほど重視していませんでした。ビルケランド教授は研究室で宇宙をシミュレーションするという、前代未聞の試みを実行しました。

1967年、ビルケランド教授生誕100周年に、IAGA(国際地球電磁気・超高層物理学協会)はサンネフヨルで初めてのビルケランドシンポジウムを開催しました。

世界中から集まった170名の研究者が、ビルケランド教授が先駆者となった分野での最新の業績について話し合いました。

このシンポジウムでは、オーロラの起源を「ビルケランド電流」と命名することが提案されました。

基調講演に招かれたチャップマン教授はシンポジウムの幕開け役を務め、誰もがビルケランド教授を称える言葉を期待しましたが、チャップマン教授は差し障りのないスピーチをし、多くの聴衆をおどろかせました。ビルケランド教授の研究について一切好意的なコメントをせず、事実と誤謬を混同させたとの持論を展開しました。

衛星からの最初の観測データは既に記録されていましたが、質的には満足のいくものではありませんでした。

60年前にビルケランド教授が主張したとおりに電流が流れるという証拠を英国学派が受け入れたのは、1970年代初期になってのことでした

こうなると、チャップマン教授は反論できません。

しばらくの時を要しましたが、チャップマン教授はようやく自分の過ちを謝罪し、ビルケランド教授に関する批判的な発言は和らいでいきました。同時に、ビルケランド教授の理論を受け入れる研究者の数も増えていきました。数年後、チャップマン教授は、ビルケランド教授がオーロラと磁気嵐の解釈における重要な進展に貢献したと書き記しました(Alv Egeland名誉教授の述懐)。

ビルケランド教授がオーロラ理論を提唱してから、証明されるまで、実に60年の月日が経っていました。

同教授がずっと正しかったという事実を科学者が認めるようになったのは、その頃からだとPål Brekke博士は言います。

ノーベル賞候補に選出

エキスパート:AlvEgeland名誉教授(85)は、ビルケランド教授に関するノルウェー人の著名研究者のひとりです。ビルケランド教授に関して多数の著作があり、50年前に同教授を称える100周年記念行事を企画しました。Egeland名誉教授は、ノルウェーのアカデミー・オブ・サイエンス・アンド・レターズで1987年以来毎年実施されるビルケランド教授の講義の提唱者でもあります。写真:Ola Sæther

クリスチャン・ビルケランド教授は、化学と物理分野で4度ずつノーベル賞の候補となりました。ただし受賞は叶いませんでした。ビルケランド教授にとって不運なことに、サム・アイデ氏が自分をノーベル賞の共同受賞者とするべきだと主張し、これが受賞のチャンスを遠ざける原因となりました。

サム・アイデ氏は科学者ではなかったのにも関わらず、ノーベル賞を獲得することに、ビルケランド教授よりはるかに固執しました。アイデ氏はまた、自分が受賞できないのであれば、ビルケランド教授も受賞しないのが最良であると考えました。

ただし、ビルケランド教授は1994年に相応の名誉を得ました。200ノルウェークローネ紙幣の表面を教授の肖像が飾ることになったのです。

ビルケランド教授の遺産

ビルケランド教授の後継者であるJøran Moen教授は、オーロラおよび地球の大気圏上層に関するノルウェーの先駆的研究者です。

宇宙研究で、ビルケランド教授の驚くべき先見性が実証されました。太陽と宇宙に関する同教授の仮定は、衛星によって宇宙の多くの秘密が明らかになってから、注目の的となったとMoen教授は指摘します。

私は、太陽と地球の関係、そしてビルケランド教授の個人史に魅了されるようになりました。教授は太陽研究に興味を抱いたすばらしいノルウェー人ですとBrekke博士は語ります。

今日、大気研究はオスロとトロムソの大学、ベルゲンのビルケランド・センター、ザ・ユニバーシティ・センター・イン・スバルバード(UNIS)で行われています。ベステローデン諸島の最も外側にあるアンドイ・スペース・センターも、研究に大いに貢献しています。研究ロケットが打ち上げられ、太陽が地球の大気に与える影響を測定するのに利用されています。

こうした活動のすべての起源は、ビルケランド教授と関連があるといってよいでしょう、とBrekke博士は語ると同時に、ノルウェーは太陽研究分野での初期の努力のおかげで、22年経過した今も太陽を旋回しているNASAの衛星「SOHO」、日本の衛星「ひので」、および米国の衛星「IRIS」の開発に貢献したと付け加えます。オスロ大学理論宇宙物理学研究所は、スヴァールバル諸島の衛星基地(SvalSat)にある巨大アンテナを通じて宇宙から情報が取り込まれた後のデータを管理します。

ノルウェーが太陽物理学の先駆的国家になるとは、予期されていた進展ではありませんでした。ビルケランド教授の偉業が同国の後世に役立ったと言えます。非常に貴重な財産を授けられました、とBrekke博士は感慨深げです。

昨今、太陽風の影響を受けやすいテクノロジーの利用が急増しています。オーロラの活動が激しすぎると、ナビゲーションシステムに影響が及びます。

われわれの大きな夢は、ナビゲーションに頼れないときに、予報を出せる気象基地を宇宙に設計することです。

ビルケランド教授はこの点で非常に重要であり、ノルウェーにおける最初の宇宙研究を確立しました。ノルウェーはオーロラの1日のサイクルすべてをカバーできる立地条件に恵まれています。夜のオーロラはトロムソで、日中のオーロラはスヴァールバル諸島で観測できます。ここは研究を続ける絶好の条件にあったのです。またビルケランド教授らは、理論、実験、計算を組み合わせる必要性に気づいた最初の科学者でもありました。現代では、この3点は自然科学分野で当然のことと考えられています(Moen教授)。

なお未解決の問題

クリスチャン・ビルケランド教授の死後100年が経ったものの、大気の物理的メカニズムがすべて完全に解明されたわけではありません。

主な課題として、プラズマの乱流の解明があります。プラズマとは荷電原子を含む気体であり、外気圏の最も外側に当たる電離層全体がプラズマで構成されています。プラズマは電磁場の影響を受け、太陽嵐が地上に降り注ぐと、プラズマに乱流が生じます。この乱流は、ラジオとGPS信号の方向を変えます。宇宙気象を予測できるようになるには、乱流の動きを理解する必要があります。

太陽嵐は大量のエネルギーを含有します。

乱流はエネルギーを分解する一手法です。エネルギーは消滅することはありませんが、波、不安定さ、熱など絶えず形態を変えます。残念なことに、これは古典物理学の基本的な問題であり、完全には解明されていません、とMoen教授は認めます。

乱流を地上から研究することは不可能です。また、衛星が移動する軌道は宇宙の高すぎる地点にあります。そこで考えられる解決策が、ロケットを使って乱流を測定する方法です。Moen教授はここ数年ロケットを何基も打ち上げてきました。

1基のロケットが返す測定値は1軌跡のみです。

我々には3次元の測定値が必要です。

この問題を解決するため、Moen教授はNASAと協力して、4基のロケットを並行して同時に打ち上げることを計画しています。2018年から2019年にかけて打ち上げる予定です。

ビルケランド教授が現在も存命であったなら、どうしていたでしょうか?

その点は何度も考えたことがあります。おそらく、電磁気学の研究を続けていたでしょう。この分野には解明すべき謎がまだ多くあります。

外気圏(地球の大気)を理解するには、太陽大気との関係をさらに解明する必要があります。太陽に対するわれわれの理解はまだ不十分であり、宇宙の天候も予測することはできません。こうした点をすべて理解したら、ほかの惑星の大気のことも理解できるようになるでしょう、とMoen教授は締めくくりました。

追記:ビルケランド教授はオーロラと肥料の研究で最もよく知られていますが、ほかにも多数の発明をしました。

* 教授はキャビア、マーガリン、鯨油の特許を取得しました。

* 1906年に最初の無線通信を実現させました。これはラジオが正式に発明されるより何年も前のことです。

* 核エネルギーの概念を提唱し、何千トンの石炭より1個の鉄子に含まれるエネルギーの方が多いと主張しました。ビルケランド教授から金銭的支援を求められたスウェーデンの銀行頭取マルクス・ウォレンバーグ氏は、教授の考えを「壮大すぎる」として拒否しました。

* ビルケランド教授はX線を有用な用途で利用可能であると認識していました。

* 彗星の尾の形状は太陽風と関係しているという可能性を提唱した最初の科学者でもありました。この着想は、太陽風の存在が実証される60年前のことです。土星の輪の謎についても解明しようと模索していました。

By Yngve Vogt
Published Mar. 28, 2017 12:32 PM - Last modified Mar. 28, 2017 12:32 PM